けれど私は拒絶しない
とっさに拒絶することが出来ない。
怖い
見捨てられるのが怖い・・・
だから私は、
友達に聞いた『その先生は、最近まで自分はO型だと思っていたのにA型だった』という、頭に残っていた情報を頼りに、
『A型のおじさんは苦手だ』とだけ伝えた。
すると教師は苦し紛れに笑っていた。
いつだったか、
いつかの教師たちの誰か複数に、通知表に何度か『感受性が豊かだ』と書かれた。
そのときは確か、素直に嬉しかった。
物語を音読するのが好きだったから。
・・・しかし、
それがいつだったかなんて覚えちゃいないが、
覚えているということはさして小さいころのことじゃないだろうということくらい分かる。
けれど、小学校の中学年のころに
祖父が死んでもなんとも思わなかった子供が、感受性が豊かなんて・・・
ありえるのか・・・・??
しかし、時折『死にたい』と思った。
それは 逃避 のための 死 だ
『感受性が豊か』なんじゃない。
ただ単に、『感情の起伏が激しい』だけ。
それは次第に深刻化し、
いつしか更なる怠惰となり
楽しいことも楽しくなくて
大好きなことも面倒になった
周りが受験勉強に明け暮れる中も、
わたしは逃避した
家庭教師は来たが、
宿題は決してしなかった
・・・来るからとりあえずする それだけ。
時間いっぱい話をつなぐほどの話術など持ち合わせていないから。
きっとわたしは、誰でもない“自分”を探してた
『誰かの影響を受けた』とか『誰かの真似をした』と思われるのが嫌いだった
しかしそれは じぶんを拒んでいるだけだと気付く。
自分の発言で摩擦が起きるのを恐れ、流されるまま生きてきた自分を。
こうやって自分について考えて、
結局行き着くところはいつも似たような場所で、
疲れて投げだす
そうやって得た、自分の表面上の情報を
とりあえず話すだけで、いつかの教師は『理解している』と言った。
お前はこの程度のことも言えないのか・・・?
それはたいそうな人間だ。
息苦しいとき、支えてくれた人などいない。
重い と思われるのが怖くて、
汚い言葉を並べて不快を撒き散らすのが怖くて、
相談なんてしなかった
悩みを打ち明けられる人が羨ましい と思うこともあるが、
人に自分の悩みを打ち明けられる程、
後ろめたさのかけらもない立派な思考などしていません。
自分とは全く関係もなく
縁など簡単に切れるような人でなければ、
本性なんてさらけだせません
だって、
こんなに醜いんだもの
被害妄想と
小さな不幸自慢と
自己陶酔と
そんな自分への自己嫌悪
そんなもので成り立つ自分。
こんなもの見せたら
害 になるでしょう
群れて騒ぐだけの人間関係なんて嫌い だが
孤独に耐えられるほど成長してなんかいないから
今日も明日も
一昨年も来年も
普通の言葉が見つからないときは、
とりあえず笑ってやりすごす
味方 をつくるよりまず
敵 をつくらぬように
毎日を心の底から笑って過ごせたら
どれだけ楽しいだろう
そうやってすごしても結局
そのなかで一番寂れた場所を探して居座るのがわたしなのだろうが。
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